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山下晴代の「わん太日記」

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山下晴代の「わん太日記」
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大濠にのぞむスタバの戸外席で、たまたま隣に座った人に、「哲学的な顔をしている」と、犬としては最大級のホメ言葉をちょうだいした、まさに、「考えるわんこ、わん太(♀)」。

彼女に教えられつつ思考する日々を綴った「日記」。夏休みの日記と同様に、サボってしまうこと多いけれど……(苦笑)。


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宇佐美ゆくえ著『夷隅川』──基礎を踏まえた端正な歌集(★★★★★)

2017/05/19 01:20


『夷隅川』(宇佐美ゆくえ著、 2015年5月、「港の人」刊)

 Facebook友の、お母さまの歌集で、初版は、2015年5月15日、それからほどなくして著者は亡くなられたと聞く。もとよりなんの知識もなく本歌集を読み進むと、新婚時代から子を経て、子供たちが独立し、やがて孫もかなり成長した姿で登場し、一人暮らしに戻り、ケアバスを待つ日々の、心の軌跡のようなものが書きつづられている。きょうびの若い歌人だと、もっとハデな歌が多く、本歌集などは地味のなかに沈んでいくか、見過ごされるようだ。だが、斎藤茂吉は、次のように書いている。

 「檐から短い氷柱が一列に並んでさがつてゐる。それから白い光が滴つゐる。それを一首の短歌にしようと思つた時、ふいと比喩にするいふ思が浮んで、『鬼の子の角ほどの垂氷(たるひ)』と云つた。段々読み返して見るとどうも厭味である。それは鬼の子では余り目立ち過ぎてはいけないのだと思つた。それならば、『山羊の子の角の垂氷一並び』かと思つたが、どうも落付かない。『めす犬の乳首のやう』とも思つたが、どうもいけない。とどのつまり、『ひさしより短か垂氷の一並』といふ平凡な写生にして仕舞つた。比喩の句法で晶子女史は名手であるが、短歌に比喩の句法を用ゐるといふ事は余ほど大きな力を持つ作者でなければ駄目だと思つた。奇抜な比喩などは存外楽なものであるが、短歌では奇抜なほど厭味に陥るやうである。『ごとく』とか『なす』とか『の』の連続とせしめないで、一首を貫いて象徴にまで進むのである」(「童馬漫語」55写生『斎藤茂基地歌論集』岩波文庫、所収)

 そう思えば、ちまたに溢れるいかにも新しき衣装、意匠をまとった歌など、厭味のオンパレードである。

 この歌集の題名を見たとき、すぐに、音の連想から、

 みかの原わきてながるるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ

 という、百人一首で同じの歌を思い浮かべた。いかにも女性らしい歌であるが、作者は、中納言兼輔である(新古今集所収)。

 本歌集の著者、宇佐美ゆくえにも、そういう心の輝きがあり、それらが収められているのが本歌集である。こんにち、多くの自称、多少「歌人」たちが忘れている基礎がここにある。

  揚水の早や始まりて暁の野を光りつつ水の走れり

 美しいリズムと朝の光が重なって、生きる喜びがそこにある。

  職場への道急ぎつつふりかえる風邪の子ひとり残るわが家を

 一瞬の思いを文字に留めている鮮やかさ。

  雷鳴におびえる園児抱きつつ遠き日の吾子をおもい出しぬ。

 ここには、他人の子と自分の子と、時間差の違う、子供への愛が隔てなくうかがわれる。これを比喩にはできないだろう。

  霜白く勤めに急ぐこの堤きょうも一羽に白鷺にあう

  乙女らは幻のごとく声あげて雪降りいでし橋渡りゆく

 これらは写生の美しさのよく表現された初期作品である。晩年になると、写生ばかりもしていられず、「心理」が介入してくる。それは、時代の変化でもあるだろうし、そういう時代に老年を迎えた者の宿命であるかもしれない。

 飛び跳ねて、これが歌と思い込んでいる自称歌人の方々がは、本歌集を読んで、勉強してほしいと思う。





夷隅川
港の人
2015-05-19
宇佐美 ゆくえ

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10年前のケイシー・アフレック

2017/05/17 00:18
10年前に初めて、ケイシー・アフレックを見て、すごいと思った。その記録があった。彼は、その後も、いろいろ注目されながら、「やっと」、大輪の花を咲かせた。ブレない男。

*****
Yahoo! 映画より。

『ジェシー・ジェームズの暗殺』 (2007)
THE ASSASSINATION OF JESSE JAMES BY THE COWARD ROBERT FORD
監督アンドリュー・ドミニク

「ケイシー・アフレックがブラピを食っていた」(★★★★)
山下晴代 さん 2008年1月17日 3時37分

原題は、『臆病ロバート・フォードによるジェシー・ジェームズの暗殺』……なにやら演劇のような題である。もしかしたら、舞台劇であったものかもしれない。
 19世紀アメリカに実在した「人気者の悪党」と、彼を暗殺した手下の、「歴史的な」できごとを、一巻の映画にしたてた。荒涼とした土地で演じられる、冷えた心理劇……。大味で脳天気なアメリカ映画が多いが、たまにはこうした、ていねいな作りの作品もいいだろう。作り手側の心意気はわかる。しかし、惜しむらくは、名作とはいいきれない欠点がいくつかある。
 1、主役の悪党=ブラピが全然魅力的に見えない。
 2、芸術への色気か、作品が長すぎる。
 3、内容を言葉で説明しすぎている。

 以上のような欠点はあるが、導入部の、荒涼とした土地に夜汽車が入ってくるシーンはとても美しいことと、「助演」のケイシー・アフレック(ベン・アフレックの弟)が魅力的であることが本作を星三つ域から脱出させている。
 とくにケイシー・アフレックは、本来なら、主役の悪党を暗殺する卑劣な男なのだろうが、困ったことに彼の方が魅力的なのである(笑)。ま〜、ブラピは、トシのせいか(44才だが、34才を演じていた)、アフレック(32才だが、19才を演じていた!)に完全に食われてましたね。アフレックの、バカを装った純な男の複雑さを表現する「視線」の演技は、見るに価する。よって、「妥協の」星四つ!

 あ、でも、やはり、「腐ってもブラピ」ということはある。全然魅力的に見えないとはいえ、やはりこの役はブラピが演じたからこそ、荒涼とした土地に観客の視線を集めえたとも言える。
 だからまあ、「妥当の」星四つか。


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『マンチェスター・バイ・ザ・シー』──稀有な俳優、ケイシー・アフレック (★★★★★)

2017/05/15 04:10
『マンチェスター・バイ・シー』(ケネス・ロナーガン監督、2016年、原題『MANCHESTER BY THE SEA』)

 予告編で、急死した兄の遺言を預かっている弁護士が、甥の後見人を兄に指名された内容を言ったあと、躊躇を見せている主人公のケイシー・アフレックをなだめ、「あんたの経験は想像を絶する」(からしかたないんだ、そういう態度になるのも)と言う。その場面はかなり短かったが、「想像を絶する」という経験がいったいなんなのか、どきどきした。
 強盗に襲われて一家を惨殺されたとか……。しかし、物語はそういうものものしさは選ばず、確かに酷い出来事ではあるが、ある意味静かな事件であった。主人公の落ち度のため、幼子3人を寝かした2階の部屋の暖炉の火が飛んで(それを防ぐために、普通はカバーのようなものをするらしいが、主人公はそれを忘れて買い物に出た。それは自分が飲むためのビールであり、すでに彼は非常に酔っていたというのは、おおぜいの友だちを返したあとだったから)、家が全焼、1階に寝ていた病気だった妻は、かろうじて外へ脱出。「なかに子どもがいるのよー!」と叫んでも、あえて火の海に彼女を放つ消防士はいない。そこへケイシーが帰って来る。酔いもぶっ飛び、呆然。しかし、なぜか、買い物のレジ袋だけは握りしめたままだ。そういう時はそういうものだ。映画は、そんなディテールを静かに重ねていく──。
 はじめ、事件を知らなくて見ているわけだが、男は兄と船遊びをして家に帰ってくると、妻は病気でベッドで雑誌を読んでいて、彼は次々子どもに挨拶をしていく、一人の女の子、もう一人の女の子、そしてまだ赤ん坊で、ベッドで寝ている男の子と、子だくさんだなーという印象。とりたてて文学シュミがあるとか、インテリというわけでもない、どちかといえば、肉体的な男。そんな男が、三児を一度に無残なしかたで失い、心が壊れる。当然、妻も心が壊れ、二人は別れる──。
 はじめに戻れば、持病の心臓病を持っていた兄の死は、主人公の「想像を絶する」経験を引き出すための伏線のようなものである。彼が後見人となる、父を失った甥も、遠景へと退いていく。ケイシー・アフレックは全身で、ある男がいかに傷ついたかだけを演じる。とくに彼の肩と、目つき。ケイシー・アフレックから厳しい菜食主義者、Vegan(ヴィーガン)という言葉を知った。彼は幼いとき動物を虐待したくないと決心してヴィーガンになったという。その筋金入りのまなざしが、兄のベンとはまったく違う色合いを帯びる。稀有という言葉は、彼のためにこそある。俳優とは、まったく地味な職業である。


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熊野純彦著『マルクス資本論の思考』──反唯物論的感傷解釈(★★)

2017/05/10 22:45


『マルクス資本論の思考』(熊野純彦著、 2013年9月、セリか書房刊)

この著者のエクリチュールの特徴は、なんでもセンチメンタルにしてしまう。それと、ニュートラルな文章では当然漢字を当てるところを、ひらがなで開いてしまう、どうもそこが、ガラスの表面を金属でキーキー引っ掻いているような気持ち悪さがある。

 目次を見ると、ほぼマルクスの『資本論』のままである。そのいちいちを、センチメンタルな解釈を添えているだけである。しかし、ここまですべてやり遂げたことには、ある種の敬意を表する、それだけである。著者の言う、「今の世界はマルクス化している」の意味がわからない。ちなみに、中国共産党幹部の多くは、マルクスの『資本論』はまったく読んでないそうである(笑)。

『資本論』のような、徹底して唯物論的なテクストには、どんな「解釈」=「切り口」も可能である。ゆえに、著者が「十代のすえから三十代のはじめにかけ」て、参加していた、読書会のリーダーだった、廣松渉的な読みも、アルチュセール的な読みも、また、ミシェル・ヘンリー的な読みも可能であろう。カントやベルクソンの訳書もある著者のことであるから、当然原書で読んだのであろう。

 私も本書のレビューを書くにあたり、十年ほど前に読んだ、『資本論』(筑摩書房の「マルクスコレクション」シリーズW、X)を再読してみると、「凡例」からして重要なことがわかった。曰く、

 「「剰余価値」、「剰余労働」の「剰余」という表現は、厳密には問題的な訳語であるが、これはすでに人口に膾炙し、ほとんど日本語に固定しているので、変更しないでそのまま採用した。云々」

 「剰余」のドイツ語は、Mehrwert(s) で、mehr は、「より多くの」、(der)Wert は、「価値」である。

 また、永山則夫を引き合いに出し、彼が『資本論』を手にした時に最初に目にしたであろう章を勝手に推測しているが、これも、「第一の序文」を飛び越して、本文に入っているが、「第一の序文」には、以下のような文章がある。

 「なにごとも最初がむずかしい、という諺はすべての科学にあてはまる。したがってここでも第一章、すなわち商品分析を含む箇所が理解するのに一番骨が折れるだろう」(鈴木直訳)

 Aller Anfang ist schwer, gilt in jeder Wissenschaft. Das Verständnis des ersten Kapitels, namentlich des Abschnitts, der die Analyse der Ware enthält, wird daher die meiste Schwierigkeit machen.

(「科学」という部分は、「学問」の方が一般的だと思うが)

 なるほどそのとおり、『資本論』は、終わりにいくほど「簡単に」なっている。「神は細部に宿りたもう」ように、『資本論』においても、「序文」と「原注」に、多くの「情報」がある。「情報社会」の21世紀こそ、それらを検討する「価値」があるように思う。しかし、本著者は、本文を「意味内容」に変換し、自身の「おセンチな思考」の表現を与えているのみである。

 こんな「解説本」?を読むくらいなら、直接『資本論』を読むことをオススメします。とにかく、熊野純彦という学者センセイは、岩波文庫のベルクソン訳でもそうですが、ただでさえ難しい原著を、より「(おそらくはそのセンチメンタルな解釈によって)わかりづらくしてしまうクセ」があるので、要注意です。

****

(少なくとも)P37と、P51に、誤植あり。


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千葉雅也著『勉強の哲学 来たるべきバカのために』──「おフランスの現代思想」じたいがすでに陳腐(★)

2017/05/08 15:22


『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(千葉雅也著、2017年4月、文藝春秋刊)

 この著者は、ちまたに氾濫する、いわゆる「勉強指南書」はひとつも読んだことがないのだろう。だから、「すでにそういうことは何人もの人が言っている」的な、重複がかなり見られ、しかも、「切り口」も、陳腐である。

 文藝春秋が出した、「文句のない学歴」かつ「人気」(前者のおかげもある)に目をつけた、「かなり遅れた」「勉強本」のひとつと見た。

 二十年ほど前から勉強本を出し続けてきた齋藤孝がかつて書いていたが、「高学歴で自身は勉強している著者による、若者よ、勉強などするな」という本を見かけると、はらわたが煮えくりかえると。本書は、決して「若者よ勉強などするな」とは言ってないし、むしろ勧めているのだが、それが、なんせほら(笑)、専門の「おフランス現代思想」的ディスクールだかなんだか、そういう「色眼鏡」にまぶされているので、決してやさしくない内容を、「やさしそう」に「書き直して」いるので、二重に難解になっている。簡単に言えば、「若者よ! 勉強するには覚悟がいるゾ!」と脅しているので、勉強への敷居をさらに高くする結果となって、著者のような「エリート」がさらに優位になる仕組みになっている。前著『動いてはいけない』とまっく同じ、反動本である。むしろ、われわれおとなは、どうして、このような、「一見若者の味方風の」反動者が出現し、かつ出版界でもよいポジションを取り(反動ゆえにかもしれないが)、本人は稼いでいるという事態になったのかを考えるべきだろう。

 こんな本を読むくらいなら、ベルクソン『物質と記憶』、フロイト『夢判断』を一冊「アゲた」方がよほど血肉になる。というのも、「おフランスの現代思想」は、だいたいにおいて、この二者対して、どいうスタンスを取るか、いかに読むかについて書かれているからだ。

 普通の勉強本なら、やはり佐藤優のものが実質的だと思う。
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『カフェ・ソサエティ』──おもろうてやがて眠たきアレンかな(★★★★★)

2017/05/06 09:47


『カフェ・ソサエティ』(ウディ・アレン監督、2016年、原題『CAFE SOCIETY』)

 ハリウッドでプロデューサーとして成功した叔父を、怪優、スティーヴ・カレルが、またして「なりきり」であるが、これがどうみても、ドリフターズの荒井注にしか見えず、しかも、本作ヒロイン、猫目のクリステン・スチュワートが猫にしか見えず、お相手、世間知らずのボビー、ジェシー・アインゼンバーグが、やはりネズミに見えてしまって──(笑)。
 確かに世界はユダヤ人によって作られている、よいも悪いもユダヤ人。そこをいつも通り、皮肉かつ冷静に見つめるウッディ・アレンの反骨精神は衰えず。
 一家なんだけど、それぞれがマチマチというところがおもしろい。まずボビーなる世間知らずの青年がいて、その母親が皮肉屋で、いつも夫のことは馬鹿よばわり、ハリウッドで成功しているとかいう弟のところへ電話をかける。「ローズだけど」「ローズ?」「あんたの姉の」「ああ。ここの番号どこで知った?」「メイドから聞いたのよ。息子のボビーが訪ねていくのでなんか仕事を紹介してあげて」
 ボビーは三人兄弟で、姉と兄がいて、兄はなんとギャングなんだが、家族は実業家と思っている。姉だけが事情を知っているような気配。隣人がラジオの音を大きくしていて、姉の夫(共産主義者のインテリ)が注意したら、逆ギレして「おまえんちの犬を撃ってやる!」姉は頭痛がしてギャングの弟に「注意して」と相談する。弟は、「いつもやってるように」、その隣人を殺してコンクリート詰めにしてしまう。
 一方、末っ子のボビーは、叔父に身の回りの雑用係としての仕事を与えられ、美人秘書のヴェロニカ、通称ヴォニーに一目惚れ。実はヴォニーは叔父の愛人で……は、よくある話。「いろいろあったが」、やっぱりヴォニーは、妻と別れた叔父と結婚し、ボニーはニューヨークへ帰るも、兄と「カフェ・ソサエティ」を共同経営する。兄は悪事が発覚し、死刑になる。しかし、一家は、兄の葬式をすませても平然としている。そこから何も話は発展しない。
 要するに、ボビーだけが、出世(兄のカフェを継ぐ)して、金持ちになり、もうひとりのヴェロニカ、ブレイク・ライブリー扮する美女と結婚して子供ももうけるが、再会した「前のヴェロニカ」が忘れられず、秘密の逢瀬。「二人のヴェロニカ」でも、第二のヴェロニカのライブリーはやや役不足。なんのことはない、ボビーと第一のヴェロニカの恋が色濃く全面に出て、あっという間に終わる。お互いを思いつつふっと遠い目のヴェロニカとボビーを交互に映し、寝落ちした瞬間(爆)、「いけねっ」と思って目を開けたら、エンドクレジットが流れていた──(爆)。
 どーなんですか? これ。前半はなかなか皮肉が効いておもしろかったけど、後半、ただの「ラ・ラ・ランド」になっていて……(笑)。「老体でもすごい」のか「やっぱり老体」なのか。しかし、あの黄色のレポート用紙に、ベッドに腰かけて、さらさらと脚本を書いてしまう様子を浮かべると、やはり私淑のアレンだった(笑)。クリステンがシャネルのCMに起用されているので、衣装提供はシャネルでした。私も以前、つられて、マスカラとライナーを買ってしまいました(ほとんど使ってないんですが(笑))。

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『フリー・ファイヤー』──ヌーボーロマンのハードボイルド(★★★★★)

2017/05/03 05:01


『フリー・ファイヤー』ベン・ウィートリー監督、2016年、原題『FREE FIRE』)

 とある70年代、どーでもいいギャングたちが、どーでもいい銃取引を、場末の廃工場(それはのちに、傘製造工場とわかる)で、することになった。南アフリカから来た、高級スーツのオッサンやら、元ブラックパンサーの黒人やら、アイルランドの元闘士風やら、190センチ超のダテ男やら、そんなにアバズレには見えない女ギャングやら……。そして、どーでもいいような「下っ端」に見えたもの同士が、前にケンカしていたことがわかり、そのケンカの続きが、銃取引が無事すんだと思われた時点から始まってしまって、これが、だんだんエスカレートして、廃工場は銃撃戦の場所と化し、おまけに、スナイパーまで登場して、でもそのスナイパーは、元ブラックパンサーが雇っていたやつららしく──。

 美丈夫、アーミー・ハマーの、ナルシストぶりとか、キリアン・マーフィーの、クールなガンさばきとか、ブリー・ラーソンの、確かに『ルーム』の時とは完全に違った役柄なれど、どこかに、かわいらしさを残していたりとか、昔の「撃ち合いモノ」にはなかったキャスティングが新鮮である。しかし、あくまで、70年代なんで、「カーステレオ」から流れる曲は、ジョン・デンバーの妙に明るい間抜けた曲。撃てども撃てども、弾は当たっているのに、急所には当たらない? みんななかなか死なないなと思っていると、後半どんどん死んでいく。食事の約束をしていた二人、マーフィーとラーソンが残り、マーフィーは地面に倒れたまま瀕死の傷を負っている? 足を引きずりながらラーソンが金の入った鞄を取り、「食事の約束、できなかったわね」とかなんとかマーフィーに言う。「ま、いいさ」とマーフィーは言い、ラーソンは、ちょっとすまなそうな顔をして去っていく──。ラーソンがふと後ろを振り返り……恐怖の表情に変わる。暗転。パトカーのサイレンの音。彼女が見たものは誰か? 

 場面はほとんど、その廃工場だけ。なんなの、これ? はい、ヌーボーロマンのハードボイルドです。

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